Gデザイナー震災体験記
あの日の回想記録と現状。幸形ノブユキ


1/18早朝 避難勧告 北へ!



寝付かれないまま朝を迎えた。なにやら外が騒がしい。ラジオから東灘区のこの辺りに避難勧告が出たとの情報が流れているという。慌ててカーラジオをつける。東灘区浜側、神戸製鋼のガスタンクからガス漏れの危険、付近の住民は2号線(山側にある国道)より上に非難しろと言うのだ。騒然とした。しかも、車を放棄して歩いて移動しろと言っている。たぶんこれ以上の渋滞を避けるためだろう。僕らは車で渋滞を避け裏道から2号線に抜けようと計画した。車は絶対破棄できない。妻と2才、6才の子供、おじいちゃん、おばあちゃん。何日救援が来ないのかも分からないまま「寝床」を手放すわけにはいかない。行政は全くあてにならないのは体で覚えた。自力で家族を守るしかない! ラジオの情報から大阪の被害は驚くほど小さいのは分かっている。とにかく2号線まで北上し、後は裏道(大阪・神戸間の道はよく知っている)を使って大阪にちょっとでも近付き、移動が出来なくなったらそこに車を停めて寝泊まりしよう、と。 思ったより道は空いていた。まあ、裏道だからなのか。電柱や倒れた家屋が道をふさぐ、迂回する。また塞がっている。迂回する。確かに土地感のない人には車の移動は困難な状況だった。移動する車窓から見る風景はどこもかしこも物凄い。傾いた家屋や電柱の下を通り抜けるときもハラハラする。ヒビの入った橋の上もドキドキする。もし、余震があったらひとたまりもないと思えるからだ。だからみんな踏切を渡るようにいったん直前で止まり、危険な個所を通過できるスペースが出来てからイッキに渡る、この繰り返しだ。道のセンターラインは左右にギザギザやグニョグニョ、上下に起伏したり亀裂がはしっている。なんとか2号線まできた。途中、海側(避難勧告区域)に逆行する一団と出会った神戸製鋼の社員と家族だった。(ガス漏れを起こしてるガスタンクは神戸製鋼の物だ、それを知らない訳もない、なぜ?)いまだにあの一団の行動の意味が分からない。とにかく、無事避難勧告のエリア外に脱出できた。

2号線を東へ!

2号線づたいにとにかく少しでも大阪に、東に行こうと考えた。まず、子供たちの空腹を何とかしたい。だがジュースを買おうにも自販機は停電で動かない。コンビニにも商品が全く無い。それと、鳥取の両親にきちんとした安否を知らせたい。会社にも連絡しないままだ、とにかく電話をしたい。それには停電していない所まで行かなければ。夜になるまでに食料と寝るところを探さなければ。たまに行ってた本山のマクドナルドも全壊している。途中、妻の高校の親友が住む森南町付近を通るが、その辺りはほとんどの家が全壊していてどこがどこだかハッキリ分からなかった。(あとで無事だと知り安心した)よく行ったサティーもかなりひどく壊れている。ここは深江の山側にあたる。(深江はあの阪神高速が横倒しになった所だ)さらに東へ進む。

やっと芦屋市、ここはまるで中国のようだ

ここは東灘とはまたちょっと違う感じがする。古くからの民家が多くそれらの全てが全壊している。「芦屋は太平洋戦争の時に空襲の被害が割と少なかったんや。そのぶん古い家が多かったからなぁ」とおじいちゃんが教えてくれた。こうも言った、「神戸は空襲、水害、今度は地震。街が全滅するような大災害は3度目やけど、今回のが一番ひどい。」と、、、。たしかに、芦屋は赤土だけになっていた。赤土の間から電柱やら瓦の破片がちらほらと見えるので街があったと分かる。この道(2号線)を毎週の様に通っていたのに、あまりに街がひどく壊れ過ぎていて何処なのか分からない、そのくらいひどいのだ。だいたい国道の左右に何もなく視界が開けているのが普通じゃない。車線上を車ではなく、無数の大きな荷物を積んだ自転車とスクーターが走っている。しかも信号が一つもない(付いていない)ので、歩行者が気ままに路上を横断している。国道上は人と自転車とスクーターで溢れているのだ。貧困なボキャブラでいささか言葉が足りないが、まるでひと昔前の中国のようだった。(行ったことはないが、、、)

西宮市、ビル倒壊、JR脱線。

2号線沿いの西宮市はビルの倒壊、破損が凄い。西宮市役所前も慌ただしい。家屋がつんのめって今にも車線を塞ぎそうだ。車のショールームの大きなガラスが砕け散っている、残ったガラスがまるでつららのように今にも歩行者に落ちてきそうだがほったらかしだ。2号線のすぐ上にJR東海道本線の高架があるが、そこから列車が脱線し斜めにはみ出している。阪神青木駅でも停車中の回送電車が脱線しているのを見たが、これはたぶん走っていたのだろう、線路からかなり大きく脱線しているようだった。新聞のアンカー店ではドラム缶に焚き火をたいて暖をとり、号外を配っていた。西宮には友達の伊東氏(「愛と感動のネットマニア」ホームページ作者)がいる。かなりひどいようで気にかかるが消防車の大編隊が道を占有しているため行けなかった。(飼ってる猫が行方不明になり心配な日々が続いたそうだが全員ご無事で現在インターネットで大暴れ中?!)

ありがとう救援物資満載の他府県トラック

昼過ぎ頃から対向車線に救援物資を満載した他府県ナンバーのトラックが目に付きだした。昨日の地震発生からわずか数時間にして「東京トラック協会」とタスキを掛けた東京近辺ナンバーのトラック大編隊。九州から「救援物資」と書いた長崎ナンバーのトラック。広島から、和歌山から、、続々と。特に目に付いたのは九州と東京近辺ナンバーのように記憶している。(時間的に1日半だから、物資を積んで、高速飛ばして、神戸付近で渋滞、で、僕たちがたまたま多く見たのか?)とにかくありがたい。いくらお礼を言っても足りない気持ちだ。「ありがとうございました」、、、少し遅れて自衛隊の大編隊もやって来た。所々ガス漏れをおこしている路上にジープから煙草をふかしながら(ちょっと代表してイヤミを)、、到着後は自衛隊さんもホントに頑張ってくれた。でも、あと一日早かったら、遺体発掘が中心ではなく、人命救助をもっと沢山できたことは確実だ。しかも来れたはずだ、地震直後、青木商店街上空を飛ぶ双発の自衛隊ヘリを見た。もちろん隊員さんが悪いのではないが。(いろんな話を後日聞いて思い直した部分も多いがその時は許せない気持ちでいっぱいだった。)

ランボー無事生還? 尼崎に電気が!

少しずつ被害が少なくなってきた。甲子園をこえ尼崎の手前まで来たとき念願の信号機に出会えた。かなり遠方に確かに黄色く点滅している信号がある。信号、、、電気、、、自販、、、ジュースである。尼崎市。ここは別世界だった。公衆電話に列が出来ていない、なのに電話は通じた。(この当たり前がその時は異常に嬉しかった)ジュースを買った。缶詰を買った。ここでもやはり腹の足しになるものはみな売りきれていた。グミを買って食べた。コンビニに入って妻が気が付いたことがあった。女の人がちらほらとだが、化粧をしているのだという、化粧をするということは、いつか洗い落とさなければいけない、つまり、どこか近くで水も出るのである。ここには、電気も水もあるのだ! 無事脱出成功!、何と車に燃料まで入れることが出来てしまった。嘘のようだった。とにかく嬉しい、まるで戦場から無事生還した兵隊さんのようだ(知らないが、その時はホントにそう思った)。映画ランボーのスタローンのようだ(神戸ナンバーのすすけた車を見る人の目はベトナム帰りの兵隊を見る目だ)。映画「大脱走」の、、、えっ、もういいって?

大バカ者がパチンコをする街、大阪?

僕らは16時間かけて何とか大阪市内にたどり着いた。予想以上に大阪市内の損害は少ない。そして大阪はまるで他人事としか思ってない連中が多すぎた。救援物資を運ぶ県外ナンバーのトラックに混じって大阪ナンバーの乗用車がいる、4WDにスキー板を乗せた若いアベックが楽しそうに。それも一台や二台じゃない。こいつらはニュースを見てないのか? 大阪市内ではパチンコをしている者までいた。まるでいつもと変わらなかった。あのさっきまでの瓦礫や、焼け野原は何だったのだろう。今も神戸では何百人もの人が瓦礫の中に埋もれ助けを求めている。なのに、となり街、大阪ではパチンコ、ゲーセンに興じている。何なんだ、この国は。そう思った。さっきまで、震災後始めて動いている信号機、自販機を見て、感激し、生き延びれたって、、そう思った僕らは、何なの。あまりのギャップに浦島太郎状態でいた。もちろん大阪でも地域によって全く被害状況が違い、大変な苦労をされた方を多く知っている。だが、そうでない人もまた沢山いたのも事実だった。(僕もそうだが、自分が体験しなければ人の痛みは分からないものなんだよね。だから、あの長崎から応援にかけつけてくださる、、、日頃から地震に備える東京の人も敏感に対応してくれる、そう感じた。)

天理教の方にお世話になった

18日の夜は会社の先輩山本氏の家、天王寺区の天理教さんにお世話になった。ここも被害はほとんど無く、物が多少落ちた程度だったという。その日は山本夫妻とお母さんにお酒を戴いて大変にもてなしていただいた。天理教の教えで、困っている人を助けるのは自分の喜びだと山本氏の母親が言われた。(その言葉の通り地震からしばらくの間、毎週炊き出しなどボランティアを長期間にわたり献身的にされたしかも、宗教団体を自治体が受け入れてくれないとのことで匿名で活動を惜しまずされていた)大阪にもこんな方が沢山おられる。当り前だが大阪が悪いのではなく、いろんな人が居るということか。翌日出発の時には靴や衣類、お見舞いのお金まで戴いてしまった。服など何ひとつ無くした者にとってこれはありがたかった。

おじいちゃん神戸を離れず

家もないし、しばらくは神戸は余震で危ないということもあり、みんなで僕の実家、鳥取に行くことにする。 しかし、おじいちゃんは頑なに神戸に残ると聞かない。店も工場(こうば)も全焼し、僕らの住んでた市営住宅も何時まで余震に耐えれるか何の保証もない。ドアもサッシもない。電気も水もガスも無い。それでも残ると聞かないのだ。言いだしたら聞かない人だということは家族みんなが承知の上だが何度も説得した。でも、やはり無駄だった。お金の持ち合わせもほとんど無かったがカードなどを使って、おじいちゃんに出来るかぎりの武装?!をした。まるで登山家がアルプスを目指すような格好だ。阪神電車は甲子園まで生きていた。あとは青木まで自転車か徒歩しかない、かなりの距離がある。(後日聞いたがなんとタクシーが乗せてくれたらしい!) 一方僕らは19日昼過ぎに大阪市内を出発して十三から宝塚に抜け、中国縦貫を通り鳥取に着いたのは深夜12時頃だった。鳥取の両親は無事な孫の顔を見て本当に安心した様子だった。この日呑んだ日本酒は本当に旨かったことを覚えている。久しぶりに熟睡した。

救援物資を乗せて再び神戸へ

残してきたおじいちゃんが気にかかる。ぼくは会社の仕事の整理もあって再び神戸へとんぼ返りすることにした。テレビでも食料、布団、医薬品など物資不足が連日放送されている。僕の妹は鳥取県米子市の近くにある西伯病院というところで看護婦をしている。同病院で看護士をしている従兄の力も借りて院長先生に医薬品の救援物資のお願いをした。院長先生は快く引き受けてくださり、翌日、段ボール箱に沢山のガーゼ、風邪薬、痛み止め、湿布薬、ほか(僕は素人で何のことだか把握してないが)専門の医薬品を下さった。この場を借りてお礼を心より申し上げます。ありがとうございました。 これらを積んで再び神戸へ。途中、災害救援センターへ電話をかけ医薬品の内容リストを読み上げるとしばらく待たされた。神戸市内の土地感はあるかと聞かれたので、「何処でも行ける」と答えると、通行規制の事があるので細かな道順を指示され、西宮の市役所に行ってくれとの事だった。かなり混乱しているらしくその答えを貰うまで30分以上待たされた。市役所はパニックなのだ!!! 中国縦貫の葛西インターで日が落ちた。ここで日の出を待って早朝、西宮に突入することにした。「救援物資医薬品・鳥取県西伯病院」と表示したプレートを貼ったが一般車両なので規制の区間は通れない。大きく迂回して地道から三宮に到着、ご存じの通りもうメチャクチャだ。そのまま山環(神戸の山手側を東西にはしっている)を東灘区に向かう。
昼前に青木到着。おじいちゃん他みんなの安否を聞く。缶詰と布団は余っているが、その他が全く無い。物資の配給が偏っているらしい。ノーマルな物資(飲料水ほか)以外に「酒」を持っていったが、これは大変に喜ばれた。この気持ちは酒のみにしか分からない。こんな時は酒でも呑まないと「ヤットレン」のだ。落ち着く間も無く急いで西宮へ向かう。

(青木商店街のおじいちゃんのお店「あいわ堂」跡)

西宮老人保養センターへ到着

2時過ぎ、西宮の市庁舎へ到着。救援物資を積んだ車が次々と到着している。係の人に聞くがやはり混乱していた。すぐ近くの・・・ここに行ってくれと言われ、その通りに行くと「西宮老人保養センター」(だったと思う?)という所についた。ここには沢山のお年寄りの方が非難されていた。救援物資が混乱のため配られずに山積みされていると言う噂もあり、直接ここへ運べたのはホントにラッキーだった。ここへ段ボール箱を降し、院長先生からあつかった医薬品のリストと励ましの手紙を渡し無事任務を終えた。(この後、医薬品の一部は近くの病院に廻り、そこから丁寧な礼状が届いたそうである。) 

車の中で1カ月暮らす

その足で大阪の会社に行った。会社で、神戸市垂水区で被災し山口県へ疎開していた片田氏と再会した。やはり僕と同じく家族を山口において片田氏だけが大阪へ帰っていたのだ。片田氏の両親は病気の為入院中に被災、重体の患者を優先するため病院を追い出された。仕方のないことなのだろうか、、、、? 片田氏は、落ち着いたら家族をこちらへ呼び戻すという。僕は鳥取県でデザインの仕事を続けることにした。(長男なのでいつかは帰らねばとは覚悟を決めていたのだが、予定外に早まってしまった。)このための準備をするまでは車の中で寝泊まりすることにした。片田氏も交通機能がマヒしている為神戸からの通勤をあきらめ会社に寝泊まりすることに。他の神戸の方も頑張ってるのだから、このくらい平気だ。大阪にはなんでもあるのだから、風呂だってセントに行けばいい、コンビニで御飯も買える、酒が飲みたけりゃ居酒屋に行けばいい、困ることは何もないのだ。(ただ、あまりに暇なのでカーTVを買ってしまった、ちょっと贅沢だったかな)それに第一、酒のみ友達の片田氏が一緒だ。毎日酒盛りになることは当然である。会社の机で缶詰並べて酒盛りをして、寝るときは僕は車、片田氏は会社の床で。朝はトイレではみがき。炊事場でお湯も沸くので生活には困らなかった。

田舎でDTP

パソコン本体と基本的な周辺機器は一通り持っていたがみな奇跡的に無事だった、何とパソコン(Mac)本体は地震当日PPCロジック回路のアップグレードのため千葉に行っていて無事だったのだ! しかし遠方で一人でするとなるとISDNサービスをうちの田舎でも使えるのか? コピー、FAXのレンタル、プリンター、スキャナ、ISDN用のヌーバスボード、ARAほか電話回線、電源まで準備しなければならない機材がめじろ押し。これらのややこしい手続を僕に代わって妻が引き受けてくれた、これはホントに助かった。、、、しかし会社はお金を出してくれない。自分で買わなければならないのだ。大阪NTTの方、米子のリコーさん、大阪のエイコーさんほか多くの方のお世話になりなんとか目標の一カ月で全ての準備が整った。車での生活ともおさらばだ!

そして一年が過ぎた

下の子が立っているのがおじいちゃんのお店跡、左後ろに建っている大きなのが市営住宅。震災前はこのアングルからは市営住宅が見えないくらい商店が立並んでいた。いつまで待ったらあの日の姿に街は再建するのだろうか?


結局おばあちゃんも、おじいちゃんを一人にしておく訳にもいかず一カ月後、神戸へ帰って行った。あれから1年半がたった。ここ鳥取はあまりにも平和だ。平和すぎて、暇だ。人間って、贅沢だなぁ。すっかり二人の子供たちはこちらに馴染んでしまっている。鳥取のおじいちゃん・おばあちゃんと子供たち(孫)が幸せそうに遊ぶのを見て、対照的な神戸のおじいちゃん・おばあちゃんの寂しげな顔が浮かぶ。全焼したお店と工場の再建はまだまだこれから。地主と、家主と、利権を求めての争いに巻き込まれ店の再建が思うに進まず、今だ収入のないまま。住いだけは僕らが住んでた市営住宅が無事だったので確保できたのだが、、、。まだメドは全然ついていない。神戸のデザインスタジオ、印刷、製版業者も今だ仕事はヒマだと聞く。動脈の阪神高速、国道43号線が完全に復旧する今年の秋までは大阪神戸間の交通はマヒしたまま、仕事にならない。零細な会社はボディーブローのように貯蓄を削っての経営がまだまだ続く。神戸の本当の正念場はまだ始まったばかりなんだ。頑張れ、神戸。頑張れ、おじいちゃん、おばあちゃん! 最後に、頑張れうちの嫁さん!


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Nobuyuki Koukata